■慶廣 言わずと知れた(?)ぼくらの初代松前藩主。1599年に蠣崎から松前へ改姓。 幼名天才丸、後に新三郎、左金吾、民部大輔、志摩守、伊豆守。 兄弟が自身も入れて27人。父親は80歳を超える長寿。謀殺に成功しては安東愛季にとことん気に入れられ、鷹を贈って南部信直の様子を伺い、九州までの長旅をして豊臣秀吉に気に入れられ、着てた蝦夷錦をその場で献上して徳川家康から気に入れられ、津軽の髭にはダメ出しをした人。 ■盛廣 慶廣の長男、内なる藩主。慶廣から蠣崎の家督を相続するも、幕府から公認されなかった。父慶廣の裏方となり、あちこち出て回った人物。寿命が短いことを自覚していたらしい。妻は父慶廣の末妹、要は自身の叔母であるとかどうとか。 ■公廣 盛廣の子、二代目藩主。 慶廣があえて手をつけなかった金山を公廣は慶廣没後に開発し、松前藩の経済改革を行った。そのこともあってか金山労働者として入ってきたキリシタンを処刑するということも。 父盛廣が慶廣より先に亡くなってしまい、慶廣が世話をしてくれいていた模様。慶廣が亡くなると慶廣の息子松前長門守利廣が公廣の暗殺を企てたり、原因不明の大火災に巻き込まれて死にかけたりと、波乱万丈の人生。辞世の句が涙をさそう。 慶廣の仲介で京より正室を迎え、その正室とは仲が良かったとか。 ■氏廣 公廣の正室の子、三代目藩主。病弱で27歳で世を去ってしまうが、地図を献上したり、ヘナウケの戦いの対応をしたり、参勤のときには勉学にはげむなど、藩主らしく文化人だったらしい雰囲気がある。江戸の松前藩邸にて没。 ■泰廣 公廣の継室の子、氏廣の弟。泰廣系江戸松前家の祖。 江戸へ分家し、はじめは慶廣の息子忠廣の世話になっていたらしい。 兄氏廣の代わりに参勤、のちに小姓組となり、幕臣となる。高廣、矩廣が幼年のため、後見人を任された。シャクシャインの戦いでは幕府より総大将を命じられて、江戸の援軍を連れて現地松前軍と合流し、鎮圧につとめた。 シャクシャインの蜂起より以前、シブチャリアイヌの抗争があった頃、松前へ帰郷し、シブチャリアイヌの首長同士の和睦を約束する福山会盟に同席した可能性があり、シャクシャインの顔はもとより知っていた可能性もあるっぽい。 戦い後に『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』をまとめた。 ■高廣 氏廣の子、四代目藩主。23歳で世を去ってしまう薄命藩主。 前述の福山会盟時では12歳だった。妻が蔵人廣林の姉だとか。妻に先立たれ、その数ヶ月後に高廣も病で亡くなってしまうという。 ■矩廣 高廣の子、五代目藩主。シャクシャインの戦い時は11歳の幼君。 シャクシャインの戦いや、家老変死の続いた門昌庵事件を経て藩主任期最長。 泰廣の息子嘉廣とは仲がよさげ。 |
戦向きなイメージのある家系。 ■正廣 慶廣と同い年の異母弟。兄慶廣に代わり織田信長へ謁見し、書付をいただくも、それは慶廣を出し抜いて家督を狙うためのものであったなどと言われるが、真意は不明。 兄慶廣とともに安東愛季に気に入られていたようで、慶廣は浅利氏討伐を、正廣は安東軍の侍大将を任されていた。侍大将を任されるも、1586年、その陣中にて病死。 ■貞廣 正廣に男子がいなかったためその後を継ぎ、慶廣の孫である二代目藩主公廣の藩主確立へ尽力した人物。年齢不詳。 盛廣が蠣崎の家督を相続し、その没後に蠣崎宗家としてその家督を継いだと思われるが、公廣が蠣崎姓を名乗っていた記録もあり、蠣崎宗家相続の時期は定かではない。記録によっては執事(家老職)に就いていたとされる。 ■利廣 貞廣の子。蔵人を名乗り、家老となって公廣・氏廣に仕え、蝦夷地の地図作製、金山管理に携わり、1543年のヘナウケの戦いへ参加した人物。三男六女の父。 ■廣林 利廣の子、俗にシャクシャインの戦いの原因を作ったなどと言われる家老。 シャクシャインの戦いがあった1669年当時は35歳、松前宗家出身の妻がいて藩政権は彼が握っていたと言われている。蜂起の報せからすぐに自身も出陣したり、斬りこみ隊長を担ったり勇猛な一面もある。 戦いより以前、藩主の安泰を願って円空に仏像を頼んだり、食糧難回避のため幕府から米を借りたりしているものの、身内からは「ドヤ顔むかつく(超意訳)」と陰口を叩かれていた様子。戦いから3年後の1672年に病死。 ちなみに廣林は「ひろしげ」と読む。ひろりんではない。 ■廣政 利廣の子、廣林の弟。兄廣林より人格者と言われた人物。兄の没後、その後をついで家老となるも病死する。 |
正廣系蔵人流が戦闘向きなら、守廣系主殿流は内政向きとかそんな。 |