■空白の9年間・休戦期

1653年から1662年の間は『アイヌ史をみつめて』の著者・平山氏は“休戦期”と呼んでいます。

55年にはシャクシャインとオニビシが松前に呼び出され、和睦を誓わされたという記録もありますが、平山氏はその記録がある資料は後世になって書かれたものであり、信憑性が低いと見ているため、赤崎もそれに従いました。しかし55年には何かしらの動きがあったのだと思います。

ちなみに1664年にはネズミが大量発生して人を噛むほどだったといい、この年の冬と翌65年の春には彗星が見えたそうな。
オニビシの息子であるカケキヨは対松前蜂起の1669年で13〜4歳だったと言われており、55年頃の生まれになります。
またマンガを描き終えてから知ったことですが、63年には胆振地方の有珠山が噴火してふもとの家屋を焼き、死者五名を出したそうな。

シブチャリより海沿いに西へ約20kmの日高門別にあったという金山の近くにもオニビシが築いたチャシがあるといわれ、赤崎の憶測ですが、そのチャシはこの時期に建築されて和人との交易拠点になっていたんじゃないかなーとか妄想してる。
オニビシが松前と同盟を結んで金堀の守護にあたったなどという憶測が生まれたのも、金山近くに彼のチャシがあったせいかもしれない。ただ、赤崎はオニビシがそこまで松前寄りのアイヌだったとは思えません。



■金堀の庄太夫

シャクシャインの娘リカセと結婚した男、庄太夫(しょうだゆう)がここから登場してきますが、彼がシブチャリへやってきた年代は不明です。

庄太夫が後の対松前蜂起でアイヌ軍の参謀役を担ったことや、“リュウトウイン”というアイヌ名があったという説(記録によっては彼の息子の名前)、アイヌの中で暮らすために必要不可欠なアイヌ語の習得などを考えると、このあたりかなーと思って、ここでちらっと描きました。

彼には出身地が二説あり、ひとつは越後(新潟県)、もうひとつは出羽(山形県〜秋田県)。
出羽出身説では秋田藩復興のため、藩の家臣と企ててシャクシャインを利用し、松前に戦をしかけたなどという腹黒説もある。いよいよもって謎の人物。赤崎版庄太夫は越後説で。
庄太夫についてはもっともっと詳しく調べたいところ。



■シャクシャインの嫁

シャクシャインの奥さんはハエクルの一員であったといわれ、それもオニビシの兄弟の奥さんと姉妹であったらしい。
シャクシャインが亡くなった後も生き延びて80歳を越える長生きをしたという。しかし注意しなければいけないのは、シャクシャインの嫁は一人ではなかった可能性が大きいということ。
アイヌの社会では首長などの経済的余裕があり、権威のある男性が妻を多く持つ風習があったので、ハエクルの一員という嫁さんと、長生きをしたという嫁さんとは別人と考えたほうが自然。
ただ、赤崎版では同一視しているため、シャクシャインより5歳ほど年上の女房ということになる(笑) ちなみに名前は不明。

アイヌ社会の男性にとって妻が多くいるのもひとつのステータスだったんですね。女性自ら自分の旦那に妾を持てなんて言うのは伝承にもしっかり残っているし、アイヌ版大奥が繰り広げられたこともあれば、うまくやっていたこともあったのは言うまでもない(笑)



■シャクシャインの子ども

シャクシャインの子どもは赤崎が分かっているだけだと以下の四人。

長男……存在があったらしいだけでほかは一切不明。
娘……名前はリカセ。庄太夫の奥さんでもある。年齢は不明、何子目であるかも不明。
次男シュモッシュン……名前が分かっているだけで年齢等は不明。
三男カンリリカ……カンリンカとも。オニビシと対談している様子や対松前蜂起の際は情報伝達の役を担うなど、それなりに記録のある人物。

カンリリカはずっとシブチャリにいて、シャクシャインの近くにいたことから末子である様子。アイヌでは家を継ぐのは長男よりも末子であることが多かったんですね。
嫁の有無や年齢は不明。赤崎版カンリリカは対松前蜂起時で36歳なので、シャクシャインとオニビシの和睦のあった53年の時点では20歳。オニビシより5歳年下。





■二頭の熊・鹿狩り事件

1662年、春、シャクシャインが熊の子二頭をとり、その帰りにオニビシと出会います。オニビシ側は不猟続きだったので一頭を譲って欲しい、そしてともに祝おうと頼むも無視され、その背にオニビシは悪口を浴びせたという。
マンガ内でシャクシャインがオニビシを無視した理由はカモクタインの姉としていますが、実際は不明。赤崎の中でオニビシの口が悪いイメージがついたのはこれのせい。

1662年、冬、ツノウシが配下10名ほどを連れてオニビシの居住の横を通り、山へ鹿狩りに出掛けます。それを見つけたオニビシがわざわざ追いかけてツノウシらに「川で魚を取るのはいいが、山で鹿を取るのはだめ」と言って追い返したという。
しかしオニビシ、1667年の春に川で漁をしたという記録がある。メナシクルを見下しての行動と言われていますが、おまえそりゃねえべ。

この二件は食糧事情や信仰的な背景よりも、獣皮等が交易においてより高額で取引されていたことが要因だったものと思われます。
熊にいたってはメナシクルとハエクルでイヨマンテ(神送りの祭事)の仕方に違いがあっただろうし、それも一因と考えられますが、ここではさほど重要でなかったように思います。


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