舜廣 | |
1539年(天文8年)〜1561年6月12日(永禄4年4月20日)[松前御尊牌写] | |
読み:きよひろ[新羅] みつひろ[松前町史] としひろ[宗家墓地看板] 彦太郎宮内少輔舜廣 戒名:舜廣院殿[松前御尊牌写] 季廣嫡男。季廣長女と山本某の企てによって毒殺される。享年23。継子なし。[新羅] |
元廣 | |
1540(天文9)-1562(永禄5) | |
万五郎 |
慶廣 | |
1548年(天文17年)-1616年11月20日(元和2年10月12日) | |
天才丸、新三郎、民部大輔、左金吾、志摩守、伊豆守 ぼくらの元祖松前。 謀殺に成功しては安東愛季にとことん気に入れられ、鷹を贈って南部信直の様子を伺い、九州までの長旅をして豊臣秀吉に気に入れられ、着てた蝦夷錦をその場で献上して徳川家康から気に入れられ、津軽の髭にはダメ出しをした人。 |
長女・南条嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
二女・下国嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
三女・喜庭嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
隨良 | |
生年-没年 | |
僧となり法源寺へ入る、後に関東へ移る[家記] |
正廣 | |
1548年(天文17年夏)[新羅]〜1586年6月2日(天正14年4月15日)[家記] | |
右衛門大輔正廣 戒名:源叟本然居士[松前家系図] 室:清香院殿玉蓮妙壺(?)大姉[要出典・法源寺正廣墓石] 子細あって天正6年夏、熊野参詣のため上洛、近州にて信長公に謁見。天正14年、檜山の屋形愛季朝臣の代に仙北高寺に出陣のおり腫物を煩い、39歳にて死去。男子なく、女子二人。ゆえに家を末弟貞廣に譲る。[新羅] 蠣崎高廣の後を継ぐ。[松前家系図][家記] 元亀2年夏、上ノ国に神館を造立、5月21日供養。[福山秘府] 東町館祖[武田家譜] 右衛門正廣は母を同じくする弟に長廣、吉廣、守廣がいた。天正6年夏に上洛したとき、近州安土で信長公に拝謁し、帰国して謀反を企てた。このとき定廣にも母を同じくする兄弟はなく一人であったため、慶廣とは深く親密な水魚の思いがあった。そのため正廣は陰謀の本意を遂げないまま秋田仙北へ行き、高寺の陣で副将としてついたが、不運にも病死してしまった。[新羅] |
長廣 | |
生年-没年 | |
玄蕃頭 |
定廣 | |
生年-没年 | |
左近大輔、但馬 |
包廣(かねひろ) | |
生年-没年 | |
與三郎 |
吉廣 | |
生年-1645年6月5日(正保2年5月11日) | |
采女正、作左衛門、左衛門尉。慶廣とともに名護屋へ赴く。 |
仲廣 | |
1561年?-1581年4月19日(天正9年3月6日) | |
秋田境内鹿渡陣討敵三騎而討死焉。廿一歳。[家記] |
守廣 | |
1564?年-1635年3月24日(寛永12年2月6日) | |
主殿流蠣崎家の祖。 慶廣のひ孫にあたる氏廣を自宅に招いた際、自宅が火事になり、責任をとりその火に入り自殺。 |
員廣(かずひろ) | |
生年-没年 | |
略歴 |
貞廣 | |
?-1635.12.3(寛永12.10.24) | |
正廣の養子となり、蠣崎宗家の家督を継ぐ。 |
四女・小平嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
五女・厚谷嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
六女・湊嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
七女・村上嫁、忠姫? | |
生年-没年 | |
略歴 |
八女・神浦嫁、小柳姫? | |
生年-没年 | |
略歴 |
九女・下国嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
十女・下国嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
十一女・佐藤嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
十二女・村上嫁、儀姫? | |
生年-没年 | |
略歴 |
十三女・新井田嫁 | |
生年-没年 | |
略歴 |
十四女 | |
生年-没年 | |
略歴 |