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蠣崎27兄弟まとめ(仮)

記事中の[○○]は出典元です。[新羅]は新羅之記録、[家記]は松前家記です。

※作成途中につき真に受けないでくだしあ。




舜廣
1539年(天文8年)〜1561年6月12日(永禄4年4月20日)[松前御尊牌写]
読み:きよひろ[新羅] みつひろ[松前町史] としひろ[宗家墓地看板]

彦太郎宮内少輔舜廣

戒名:舜廣院殿[松前御尊牌写]

季廣嫡男。季廣長女と山本某の企てによって毒殺される。享年23。継子なし。[新羅]

元廣
1540(天文9)-1562(永禄5)
万五郎

慶廣
1548年(天文17年)-1616年11月20日(元和2年10月12日)
天才丸、新三郎、民部大輔、左金吾、志摩守、伊豆守
ぼくらの元祖松前。
謀殺に成功しては安東愛季にとことん気に入れられ、鷹を贈って南部信直の様子を伺い、九州までの長旅をして豊臣秀吉に気に入れられ、着てた蝦夷錦をその場で献上して徳川家康から気に入れられ、津軽の髭にはダメ出しをした人。

長女・南条嫁
生年-没年
略歴

二女・下国嫁
生年-没年
略歴

三女・喜庭嫁
生年-没年
略歴

隨良
生年-没年
僧となり法源寺へ入る、後に関東へ移る[家記]

正廣
1548年(天文17年夏)[新羅]〜1586年6月2日(天正14年4月15日)[家記]
右衛門大輔正廣

戒名:源叟本然居士[松前家系図]

室:清香院殿玉蓮妙壺(?)大姉[要出典・法源寺正廣墓石]

子細あって天正6年夏、熊野参詣のため上洛、近州にて信長公に謁見。天正14年、檜山の屋形愛季朝臣の代に仙北高寺に出陣のおり腫物を煩い、39歳にて死去。男子なく、女子二人。ゆえに家を末弟貞廣に譲る。[新羅]

蠣崎高廣の後を継ぐ。[松前家系図][家記]
元亀2年夏、上ノ国に神館を造立、5月21日供養。[福山秘府]
東町館祖[武田家譜]

右衛門正廣は母を同じくする弟に長廣、吉廣、守廣がいた。天正6年夏に上洛したとき、近州安土で信長公に拝謁し、帰国して謀反を企てた。このとき定廣にも母を同じくする兄弟はなく一人であったため、慶廣とは深く親密な水魚の思いがあった。そのため正廣は陰謀の本意を遂げないまま秋田仙北へ行き、高寺の陣で副将としてついたが、不運にも病死してしまった。[新羅]

長廣
生年-没年
玄蕃頭

定廣
生年-没年
左近大輔、但馬

包廣(かねひろ)
生年-没年
與三郎

吉廣
生年-1645年6月5日(正保2年5月11日)
采女正、作左衛門、左衛門尉。慶廣とともに名護屋へ赴く。

仲廣
1561年?-1581年4月19日(天正9年3月6日)
秋田境内鹿渡陣討敵三騎而討死焉。廿一歳。[家記]

守廣
1564?年-1635年3月24日(寛永12年2月6日)
主殿流蠣崎家の祖。
慶廣のひ孫にあたる氏廣を自宅に招いた際、自宅が火事になり、責任をとりその火に入り自殺。

員廣(かずひろ)
生年-没年
略歴

貞廣
?-1635.12.3(寛永12.10.24)
正廣の養子となり、蠣崎宗家の家督を継ぐ。

四女・小平嫁
生年-没年
略歴

五女・厚谷嫁
生年-没年
略歴

六女・湊嫁
生年-没年
略歴

七女・村上嫁、忠姫?
生年-没年
略歴

八女・神浦嫁、小柳姫?
生年-没年
略歴

九女・下国嫁
生年-没年
略歴

十女・下国嫁
生年-没年
略歴

十一女・佐藤嫁
生年-没年
略歴

十二女・村上嫁、儀姫?
生年-没年
略歴

十三女・新井田嫁
生年-没年
略歴

十四女
生年-没年
略歴
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